2016年03月19日

駿府城の二ノ堀

静岡平野は賤機山の南麓を中心に扇状地の地形になっています。

ということは、駿府城全体も若干の高低差があるわけです。
浅間さんの方が高いので西から東ですね。

小さい頃から駿府城に行っているので
あまり気にとめて見ていませんでした。

北門付近の看板(公園内)
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分かりやすので公園地図を。
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北門橋からみる東側
かなり歩道と近いですね。
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西側
外側の石垣をみると斜めになってるのが一番わかりやすい。
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現二ノ丸橋からみる東側
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西側
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西側の堀(坤櫓下から見る)
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外堀(西側)はもっと深くなります。
外堀の石垣好きなのでまた改めて記事かきます(^-^)
桜の時期ももうすぐですね。
満開で綺麗ですよ。

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祭りももうすぐ。


ラベル:静岡の城 静岡
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2016年03月10日

薩摩土手を歩く(続)

続きです。


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切り株横の階段。

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真ん中の道が土手。
名残がありますね。

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小さな祠がいくつもあります。
水神社もいくつか。


現在の安倍川
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現在「さつま通り」となっている大通りは、もう一本の内堤があったようで、
柳町の交差点付近をみると道が盛り上がっているのがよくわかりました。
「土手通り」というのもあるのですが、
そちらは土手があったようには見えません。
どうしてその名がついたのか
また調べてみよう。
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本通り(旧東海道)までを歩きましたが
土手の名残が各所に残っていて、発見できて楽しかったです!
この安倍川の田町付近は昔処刑場があり、
駿府の町の外れですが見物にくる人が結構いたそうです。

最近昔の駿府の情景がいろいろ浮かんできて嬉しいやら悲しいやらです。
でも、これもこの土地の、人の歴史なのでもっといろいろ知りたいなぁ。



静岡、好き。


参考文献
※1「薩摩土手と駿府城下町」黒澤 脩
※2「さつま通り 薩摩土手の築堤と変遷」朝比奈 清
posted by さら at 20:35| Comment(0) | 駿府城と城下町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

薩摩土手−駿府城築城のための治水事業−

静岡市民も知ってる人しか知らない「薩摩土手」
静岡市中心部に流れていた安倍川の流れを変えるための土手です。
これによって今日の静岡の街も水害から守られております。
家康の命によって薩摩藩主(島津忠恒)が築堤しました。

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現在でもその一部が残り、また住宅地に埋もれながらもその名残を感じることが出来ます。
一緒に歩いてくださったサイガさんのおかげです。



家康は江戸を離れ隠居の城を駿府の地に決めましたが、
最初は今の場所よりも安倍川に近い「川辺町」付近に計画していました。
しかし、安倍川の洪水などによって打撃を受けると分かると、今川館があった場所に決定します。
ちなみに、家康だけではなく、今川時代にも治水は行われているそうです。
今川氏親の時代、安倍川と藁科川の一部を合流させています。(※1)
今の藁科川は安倍川へ流れていますが、昔は安倍川と並行して海へ流れていたようです。


家康時代の安倍川の流れは
浅間神社の南麓(宮ケ崎町交差点)を分岐に麻機沼へ(北川)、また南へも二本の支流が流れていたようです。

中町にある静岡天満宮に
ここが中洲であったという牌が残っています。

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浅間通りを通って浅間神社を右にして安倍街道を歩きますと、
妙見下付近に「井宮神社」があります。
賤機山からの支尾根の先端にあり、結構急な高さです。
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この安倍街道は安倍川が流れていただろう場所で、小さな川も残っていました!
安倍川の流れによって山肌が削られていたかもしれません。
さらに、ここが薩摩土手のはじまりの場所ということを考えても
安倍川の流れが直撃してたでしょうね。
実際築堤後も何度か決壊もしているし。

というわけで、井宮神社から薩摩土手が続きます。
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昭和39年の写真(※2)をみるとまさに土手を断ち切って道を通したというのがわかります。
当時も大雨が降って洪水の恐れがあるときは、ここに木の板を何枚も重ね
市街地へ水がいかないようにしていたようです。
現在でも坂が少し残っています。
土手の横には安倍川の名残が。

当時の土手は
高さ5.4m
天端(上)10.8m
敷(地)22m
それが一本ではなく、2本、3本とあり、流れをかえて行ったようです。
今回歩いてるのは…一番駿府に近い位置かなと予想。


昔も今も生活用水のため街中へ流れるための水門も各所に設けられていたようで
昭和40年頃までは水が流れていたようです。
その後埋められてはいますが、位置は確認できます。


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石垣
水門の近くにあるここだけしか確認できませんでしたが、他にもあるのかな?
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この先の土手は新しいもので、本来はもう少し内側にあったようなので
その痕跡を辿りました。
(歩きつつわかったことですが←サイガ先生がw)

さつま通り(内堤だった)のカーマを曲がると
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道路に高さがあるのがわかります。

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途中にあったこの古株、サイガさんもおっしゃっていました。
本(※2)にも「古い切り株が3本ある」とあるけれど、ここではなさそう。
今はないのかな。


高低差。

良い。
テンションあがっております。

写真が貼れないので
続きます。


参考文献
※1「薩摩土手と駿府城下町」黒澤 脩
※2「さつま通り 薩摩土手の築堤と変遷」朝比奈 清
ラベル:静岡の城 静岡
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新野古城(八幡平の城)−今川氏一族新野氏の城−

県別まっぷるにも「八幡平の城跡」で載っていました。
来年の大河のためか、「新野氏ゆかりの地」看板がたっていました。
城への案内の充実してます。

室町時代初期に八幡平の城、中期から後期に主要部を舟ヶ谷城に移したということで
八幡平の城を「新野古城」、舟ヶ谷城を「新野新城」というそうです。

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一城別郭でそれぞれ二つの曲輪とそこから伸びる尾根を数カ所堀切でさくっと切っています。


写真は新野古城のいろんな堀切…
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曲輪の下には通路を兼ねた堀、土塁が見られます。
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よく残っていました。


今度は舟ヶ谷城にもいかねば。
あと塩買坂!!


全景
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ラベル:静岡の城 静岡
posted by さら at 16:03| Comment(0) | 静岡の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

横地城−遠州の名族横地氏の城−

横地城(静岡県菊川市)

ずっと行っていませんでしたが
こちらもやっと行きました!
整備がされていて大変見やすかったです。

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山の尾根を利用した、一城別郭の城。
西の城、中の城、東の城からできていて、かなり広大です。
全体的には細かい支尾根を壇上地にして、その先を堀切でスパッと切る造り。
堀切がいくつもあります。

西の城の堀切
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横地城の堀跡は、発掘調査の結果、堆積があまりなく、現状に近い状態だそうです。


中の城の特徴は、周囲を囲む土塁と、すぐ下の横堀。
堀底0.9mと小規模。
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写真は曲輪の上から土塁越し。
堀もうっすらわかりますね。


東の城
井戸跡確認し忘れました。
谷間に一つあったけど。
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さくさくっと見たので
周辺の史跡もあわせて再訪します。
posted by さら at 21:50| Comment(0) | 静岡の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする