2011年11月05日

持舟城

持舟城(もちふねじょう)
訪城日:平成22(2010)年.10月

この城は、私が本格的に「城に行こう!」と思い始めてまず行った城です。
とても近かったんです。
自己満足の城動画を作るつもりだったので、写真よりも動画が多く、
さらに時間もなかったことから、本当に障りだけです。
近々行ったらまた追記する予定。


参考資料は現地看板…他。


【持舟城】
縄張:山城(標高76m)
築城:今川氏→武田→徳川→武田→徳川
はじめの城主:一宮元実(今川氏属将)
遺構:土塁・郭・堀切・井戸

築城年代は不明だが、今川氏の時代には築かれていた。
今川・武田・徳川の間で三度の攻防戦が行われ、
天正7(1579)年の武田氏VS徳川氏の戦いでは、4百人余りが戦死するという激戦の末、
徳川方の城となった後、やがて廃城。





JR用宗(もちむね)駅より徒歩15分
駅を降りて線路を渡るために、東に少し歩いて線路を渡り、ぐるりと回りました。
駅から線路の北側に下りることができたら目の前なのですが。
駅前の看板にはしっかり書いてあります。
持舟城看板.jpg
地元でも知名度はそうとう低いと思います。
誰に言っても「え、あんなとこに城あったの??」です。


主に駿河守備の支城として重用されます。
昔は用宗駅のあたりから駿河湾が広がっていたようなので
船着場ということで「持舟」という名前になったようですね。

駅を東に歩いていくとこんなものが。
城山烈士供養塔
CIMG3410.JPG
最初に徳川家康に攻められた時に討ち死にした向井正重らを供養するものとのこと。


メモ:
向井正重(むかいまさしげ)
今川氏、武田氏に使えた水軍の将。
息子の向井正綱(まさつな)は、武田が滅ぶと徳川氏につき向井水軍として小田原攻めなどでも活躍する。


山麓の浅間神社の脇を入り、舗装された道路を少し歩くと右側に細く小さな階段があり
「持舟城址→」とあります。
登城口です。
急に細道。蜘蛛の巣だらけでした。
CIMG3422.JPG

途中転びそうになりながら急いで駆け上がると(何せ時間が無かった)
10分もかからず本曲輪へ到着。
綺麗で分かりやすい看板も設置されていた。
持舟城縄張看板.jpg

縄張り図も持たずに出たのでここで知る持舟城の全景。
・本曲輪、
・南西側のくぼ地に大堀切
・井戸跡(曲輪)、
・その南側に二ノ丸(二の曲輪)
・本丸の北側に腰曲輪

があったそうです…。
今回見れたのは本曲輪、堀切、井戸。
二ノ丸は私有地のみかん畑らしく、登るところも分からず。
腰曲輪は木が生い茂っていて入れず。



とりあえず本丸到着。
持舟城石碑.jpg


本丸には廃寺があるというので期待していたのですが…
行ってみると綺麗になくなっていました。
CIMG3438.JPG
(夕方で思いっきり逆光ですが)
たぶんここにあったお寺の名残の石灯籠。
堀切、二ノ丸はこの後ろ。
向かって左側にあるかすかな坂を下りることができます。


堀切底からみる井戸(フェンス)何故かわたしは近寄れなかった…再訪します。
堀切からの井戸


当時私は、天守閣のあるお城にしか行ったことがなく、
規模は小さいけれど、こういった言わば天然の「山城」(しかもほぼ未整備)に慣れていなくて、
あまり奥まで進んでいくコトかなわず。

人気も少ない、しかも本丸に来た私以外のお一方は
何故か長い得物を持っていたのですよ。
「何あの長いの…怖い」とちょっとブルブルしてましたら
「竹刀」だったようで。
素振りに来ていた御仁でした。
まさか武士の末裔…!!←

帰りは大急ぎで下山しました。
猛スピードです←
3分くらいだった気がするw


持舟城、必ず再訪します。
次回は堀切、井戸、腰曲輪、とかもう全てですね。
ちゃんと写真とってきます。
当時よりは目は肥えたはず。


最後に本丸から静岡市街を見おろすわたし。
持舟城から眺める静岡市街.jpg


ラベル: 静岡 静岡の城
posted by さら at 23:37| Comment(0) | 静岡の城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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