2013年04月20日

宗教観。

ちょっと雑談。※長文です


物心つく頃には親の影響でマイナー宗教に入っていましたが、
信じることはできなくて、止めました。
実際どんな教えなのか、よくわかっていません。


日本に多い「仏教」とか「神道」とやらもよく知りません。
どちらかといえば「キリスト教」系だったのですが、子供の時から行事は一切やったことがありませんでした。
家族の誰の誕生日も祝ったことはないし、日本古来の行事なんかも話題にすらしません。
この辺はわたしを形成していく上ではかなり影響しています。



止めた今では、宗教めいた考えを強要されると一歩引いてしまいます。
あまりに生活・習慣の中に染み付いているから「強要してる」なんて思われないですが。
というかもう、それはマナーなのか、宗教の教えからなのかも曖昧で困ります。



神社で手を合わせたり、お賽銭入れて何かを願ったり、祈ったり。
お線香あげて、お経をよんだり。
教会にいって賛美歌歌ったり。
一体何に祈って、願うことがあるんだろう。
って思ってました。


でも、すごく自分がダメになったとき
抜け出せない自分を何とかしたくて、
信じる力ってのを借りてみたいと思うようになりました。


願えるなら、願いたい、未知数なものにすがりたい。
それでどんなに楽になるんだろう。
信じられるものがあるっていうのは。
感謝できるものがあるっていうのは。


「そういう気持ち」を持ちたいと思って
友人が入っている宗教に数度行ったことがありました。
家族には嫌悪感まるだしで心配されましたけど。


産まれつき足の不自由なその友人は、どんなときでも笑顔で
まっすぐで、病院でもすぐに人に好かれていくような人です。
お母さんも、いつも笑顔で、逆に私のことを心配してくれて。

あぁこの人たちは何に守られているんだろう。
何を信じていたらこんな風に穏やかに、優しく生きる力が湧くのだろう。


その教えの発端や、体験談をきいて、
三回ほどはいきましたが、無理でした。
そう簡単にいくはずはないと思っていましたが、藁をもすがりたい心情でしたからね。
でも、それを信じる人たちが生き生きしてる様はよく分かったし、
その気持ちはやっぱり羨ましくも思いました。
けれど、わたしに信じられるものではありませんでした。

今ではやっぱり「無宗教」信念について考えようかと。
それか、「神道」
そんなこと考えなくたって今の世の中生きれるんですが、
育った環境ですね。
考えちゃうんですよね。
自分の終わりが見える前までにまとまればいいな。




無宗教を掲げ始めた頃のわたしに
昔の宗教のしがらみを感じさせた言葉が
「運命」でした。


すごく悩んでいた時、それを相談した方に
「それが運命なんだよ」て言われてはっとしました。
ともすれば突き放しているようで、でもこの時はものすごく納得しました。


私の教えの神様は、人の人生を運命づけてはいませんでした。
人間には選択の自由を与えられ、自分の信仰心を試されます。
わたしにもっとがっつり信仰心があったなら、神に祈ることもしたのかもしれないけど。

だからこの時は、
「そうか、こうなる運命か。こういうときに運命って言葉を使ってきたのか人は。運命って明確じゃないけどひとまず混乱は落ち着いた」
という気持ちでした。


今まで自分で「運命」なんて全く思わなかったのは「神様」の存在が近くにあったからなのかと思ったわけです。
運命と、神の意思は遠い。(私の神様は)




でも、今は使いません。
神様の次に「運命」にも臆して生きたくはないので。




信じるものも、信じたいものも特にないから
あるがまま、あるのままを見るだけにしたいんだ。
自分の想いはちゃんと感じていたい。



自然には感謝。
そこに「神」の力と感じる畏怖の念か湧き上がっても不思議じゃない。


なので私は自然という確実にそこにある強大なものにいつも魅せられ、ひかれていきます。

数年後にできればいいけど、いつか
里山で暮らしたい。
自然に感謝しながら、人が生かされていることを感じながら。



長文失礼しました。
また考えが変わったら書いておこう。
posted by さら at 17:40| Comment(0) | 雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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