最初に諏訪原城に行ったのは平成22年11月。
その頃からだいぶ変わっていますね。
名前が混乱するので縄張図みながら読んでください(←自分に言っている)
今回は二の曲輪東馬出の発掘現場を見ることができました。
ここは馬出の部分。
黒っぽく焼けた土の層があり、その部分が武田氏時代と考えられるそうです。
ちなみに砂利や丸石が多いのは、
諏訪原城がある牧之原台地が大井川の扇状地が隆起してできた台地だから。
その石がないところは整地した跡かな。
その上の層に二つの礎石が出てきました。
これまでに出ている、二の曲輪北馬出門の礎石や、
二の曲輪虎口の門の礎石、本曲輪虎口の門の礎石と比べても、一番大きな礎石だそうです。
あと二つは堀側(東内馬出側)に木を植えた時に落ちてしまった可能性があるそうです。
そして前面の堀!
堀の深さは曲輪側で約7m50cm
堀底の幅は約1m
薬研堀です。地層みると箱堀に改修された跡はないそうです。
他の堀では薬研→箱堀に改修された跡がみられるそうです。
(どこか忘れました)
薬研が武田で箱堀が徳川だとは一概には言えないけれど、
薬研のあとに箱堀が出来たことは確実なので
後の改修ですよね。
ここは薬研のままですが。
地層みるといろんなことがわかるんですね!
なんか地質学もちょっと知りたくなってきました。
あとはこの重ね馬出の箇所だけで、鉄砲玉が45個も出土しているようです。
他の箇所に比べてかなり多いようです。
この場所がかなりの激戦地だったようですね。
凝った遺構からみても、街道に近いこの場所が一番重要なところだったのかな。
発掘調査で実際に昔のものが見れるってすごいことですよね!
同じ日には岐阜城の発掘調査現地説明会も行われたようです。
いつか資料をみたいな(´∀`*)
終わったあと、石上城を目指しました。大井川を北上します。
【石上城】
コンパクトながら、堀切、横堀、竪堀などが見られます。
屋敷があったとされる平地とその背後にある詰城です。
かなり奥地ですが、いまも集落が残っいます。
当時もここを街道が巡っていたんですね。
【野田城】
島田の街中から近い野田城ですが、登り口がわかりません。
道がどこかにあるんでしょうか。とりあえず尾根にはたどり着き、土塁と竪堀だけは発見。
時間切れだったので再訪決定です。